2009年11月1日 結縄嘉夫
イザヤ書 53章6節
おはようございます 塩山先生が茂原教会にこられて以来、この場に立ってお話しする機会がありませんでした 最近教会に来られて、神様を求められて来られていることを覚え
自分の証しを通し、神様のことを知る機会となるお役に立てればと願っていましたが このように証しをする機会が与えられましたことを感謝したいと思います。
今日は私が神様を知るきっかけから神様を信じるに至っとことについてお話ししたいと 思っておりますが、お互いの分かち合いの時になればと願っています。
私が始めて教会に通うきっかけとなったのは今から35年前、当時中学2年の時でした 社会の歴史の授業だったと思いますが、先生が突然「皆の中にクリスチャンはいるか」という質問を
しました、今ならばプライベートなこととして扱われる内容なのかもしれませんが クラスに2名ほどいて、手を挙げると、少しばかにした笑いがクラスにありました
私は皆が笑うことが不思議だったのですが、それ以上に笑われているにもかかわらず 恥じるわけでもなく、照れるわけでもなく、毅然としている態度が印象に残り
キリスト教って何かあるのかも知れない とその時は思いました その後、そのクラスメートに「教会に通ってるの」と話し掛けると、通っているとのこと
偶然にも同じJRの駅から通っていることがわかり、話しが進み、今度特別集会があるから来ないと誘われました、 今、同じ駅から通っているとお話ししましたが、少し補足しますと、中学からわたく私立の学校に
通っていましたので、学校には東京、神奈川、埼玉、千葉といろいろなところから通う学校でしたので 今から思うとその時からご計画に覚えられていたのだと感じています。
話しを戻します。 特別集会に誘われはしたのですが、行くとも、行かないとも返事はすることなく 教会の場所を教えてくれていたのか記憶が定かではないのですが、その場はなんとなくやりすごした
感じでした 話しが少し飛ぶように思われるかも知れませんが、当時私は野球部所属していました その特別集会に誘われたころ、新しいグローブを探していて、部活が終わって帰ってきてから
自転車でうろうろをスポーツ用品店を回っては、気に入ったものが無いかと探していました なかなか気に入ったものが見つからないまま、うろうろとしていた時に新小岩教会のすぐ近くに
スポーツ店があるのを思い出し、そこに駆けつけました、そこでも気に入ったグローブは見つからなかったのですが、その帰り道に教会があるのを見つけ、「特別伝道集会」という看板が目に入りました
これって、もしかしたらクラスメイトが誘ってくれていた教会の集会・・・と思い 受付けに入り、間違っているかもしれないと思いつつも、クラスメイトの名前を告げたところ
クラスメイトが迎えにきてくれ、その集会に話しを聞く機会が与えられました。 その集会での話しは私たちだれでもが持っている罪についての話し 神様の存在、そしてその橋渡しをしてくれるのが、キリストの十字架であることを
わかりやすく、お話ししていました、そして今この講師が話していることが真実なら 大変なことだ、なぜ今まで知る機会がなかったのだろうと思いつつ聞いていました
そしてその集会の最後に神様を信じますかという招きの時がありました 手を挙げていいものかどうなのか戸惑っていましたが、講師の方の「最後にお尋ねします」
という言葉に手を挙げ、前に出て牧師に祈って頂きました 今、思い起こすと、偶然目にした集会に出席し、神様を信じる決心をするなんてことは 決して積極的でなかった私には想像もできなかったことです。
信じる決心はしてしまったものの 神様って本当、罪って言われても何が罪なのという思いをいだきながら、その集会で頂いた トラクトを読みながら、それらの思いを、疑問を晴らそうと教会に通うようになりました
通うようになって暫くしてから、神様の存在、罪とは何ぞや、キリストの十字架の意味合い そしてしれらのことと自分との関わりについて頭では理解することが出来るようになりました。
当時の教会学校の先生からも結縄君の罪の為にイェス様は十字架に掛かってくださったんだよ と何度も言われていたように覚えていますが、なんで私の罪の為になの
2000年以上も前に私が生まれることがわかっているの そんなこと言われてもわからない と頭で理解していたと思いつつも信じきれない自分がどこかにいて
そんな時が暫く続きました。 中学3年になって、部活も終わり、そんな時に超教派で開かれている松原湖バイブルキャンプに 誘われ参加しました、そのキャンプの中で部屋のリーダーにその時思っていた思い
頭ではわかったような気がしているけれど、どうしても自分の為ということに結びつかないことを 話したところ、今日の聖句であるイザヤ書を示されました。
普段聖書を読んでいる際になんの意識もせずに読みすごしてしますようなこの箇所をしめされた時に、 何かそれまでもやっとしていたものが晴れていくのを覚えました
ただ、ここにしめされていることを素直に信じればいいんだ という気持ちになれました そして今までの自分が考えていたことの傲慢さも知らされました
私が神様を選んだのではなく、神様がこんな私でさえも覚え、愛して下さっていることを実感する ことができ、受け入れることができました。 この時、私にとって神様を信じることになったと信じています。
その後、東京に帰ってから教会学校の教師に神様を信じることを伝え、バプテスマ(洗礼)を 受けることを決心し、その年の12月21日の寒い日でしたが、無事バプテスマを受けることが出来ました
最近福島さんの信君が暖かい日にバプテスマを受けたことが記憶に新しいですが 寒い日に真水の中に沈められたことは冷たかった記憶として今でも鮮明に覚えています。
そしてもうひとつ鮮明に覚えているのが、バプテスマの前に会衆の皆さんの前で信仰告白を したのですが、牧師から「今の信仰告白にご質問がある方はいらっしゃいますか」という問いかけに
普段は質問をされることはほとんど見たことがないのですが、私の時に限って質問がありました 質問の内容は良くは覚えていないのですが、「神様を信じるということはどうとらえているのか」
といった質問だったように思います。 質問されることなど、ゆめゆめ思っていなかった私は答えなど準備しているわけではなかったのですが その時とっさに答えていたことは、
「教会に毎週毎週通わなくてすむものならそうしたい、神様を信じなくていいのだったら信じたくない ただ信じるしかないので信じました」と答えました
質問者の意図する答えになっていたかどうかはわかりませんが、隣にいた川口牧師が うんうんとうなずいていたのが見えたので、これでいいのかなと思いつつ話し終えました
この答えが今日のお話しの題とさせて頂いた「信じるしかない神」とした理由です。 今、お話しさせて頂いたのは私の出来事で、私にとっては偶然、偶然と表現していたことが
神様が道を備えて下さっていたことを分かって頂けたのではないのでしょうか 先ほど私が神様を信じる決心をすることが出来た松原湖バイブルキャンプのことについて
ふれましたが、今では息子の真がそのキャンプのクラスリーダーとして参加させて頂いていることにも 感謝を感じています。 ここに皆さんがここにいることも決して偶然ではなく、神様のご計画にそった必然であると
信じています。 皆さんお一人お一人にとっての神様を知ること、信じることにつながる道を備えてくださって いるとおもいますし、それぞれの証しがあるのではないでしょうか
ここで提案があるのですが、今日は私の証しをさせて頂きましたが、皆さんお一人お一人の 証しを話す機会をつくってみてはどうでしょうか 塩山先生を茂原教会にお招きしてから、この7月で6年目を迎えました
塩山先生の地道な活動で、出入りがありながらも、教会に集わられている兄弟姉妹を覚えます 私たち一人一人も先に神様を知った者として一人でも多くの人達に福音を述べ伝える使命を
負っています 今週の7日には塩山二郎先生をお迎えし、集会が予定されていますが この集会を通して一人でも多くの人が教会につながり、神様を知る機会が与えられ、信じることに
つながればと願っています。